1.口頭による示談合意の証明上の限界と紛争再発のリスク
思いがけずに刑事事件の加害者になったときや予期せぬトラブルの当事者となった場合、誰しも不安や焦燥感に駆られてしまいます。一刻も早くこの状況から解放されたい、相手方の怒りを鎮めたいという気持ちから、その場の話し合いだけで解決しようとすることは、珍しくありません。
話し合いでの合意による解決は、契約としては和解に該当します。和解は、口頭による当事者双方の意思の合致のみによって有効に成立します(民法第695条、第522条第2項)。しかし、この法的な性質が、かえって落とし穴となることがあります。
口頭での約束が有効であることと、その約束を後から証明できることは、全く別個の問題です。書面という客観的な証拠が存在しない状況において、後日になって相手方が「そのような約束はしていない」「合意の内容が異なる」と主張した場合、それを覆すことは容易ではありません。
「言った、言わない」という主観的な主張の対立に陥ったとき、関連する事情から証明することになり、結果として合意が成立したという事実が法的に否定されてしまうリスクが生じます。
当事者としてはその瞬間に解決したと信じ込んでいても、相手方の記憶の変遷や、心境の変化によって、合意の存在が覆されるリスクを内包しているのです。
2.その場での現金交付が引き起こす解釈の齟齬
事態の早期収束を望むあまり、その場で財布の中にある現金を渡したり、近くのATMで引き出した現金を相手方に手渡したりすることもあります。現金を渡した側は、これですべてが解決したと考えることは珍しくありません。
確かに、現金を実際に交付したという事実は、支払った側から見れば「これによって話がついた」と解釈するのが自然であり、一定の合意が存在したことを推認させる間接的な事情にはなり得ます。しかし、現金を渡したこと自体が、常に解決を意味するとは限りません。
現金を受け取った相手方の視点に立てば、その現金は「発生した損害の全体のうち、とりあえずそのときに支払える分として支払われた一部」であると主張する余地が残されています。
ATMの利用履歴や引き出し記録は、あくまで自己の預金口座から特定の金額が減少したという事実を証明するに過ぎず、その現金を相手方に渡したか、もし渡したとしてもどのような趣旨で渡したかを証明するものではありません。
明確な合意の目的が記述された書面がない限り、相手方による追加の金銭請求を直ちに拒むことは難しいでのです。
3.客観的な証拠を欠く状況下における事実認定の難しさ
後日になって相手方から新たな請求がなされたり、被害届の提出などの法的手段が講じられたりした場合、過去に成立した合意の効果を主張するためには、捜査機関や裁判所に、その事実を認めてもらわねばなりません。
基本的には、それは合意によって利益を得ている現金を渡した側が行うことになります。しかし、突発的なトラブルの現場においては、事前の準備がないため、スマートフォンのテキストメッセージや電子メールといった後から確認できる形でのやり取りが残されていることは、ほとんどありません。
仮にその場の会話を録音していたとしても、それだけで十分な証拠になるとは限りません。一般の日常生活において交わされる言葉は曖昧であり、多義的な解釈を許すものが多いためです。例えば、現金を受け取った相手方が「これでいいです」と言ったとしても、それが「この金額で全ての損害賠償を終結させる」という意味なのか、「今日のところの誠意としてはこれで受け取っておく」という意味なのかは、文脈や前後のやり取りによって判断が分かれます。
録音の音声から確定的な合意を認定することは想像以上に困難であり、相手方が「無理に言わされた」「真意ではなかった」と反論することも考えられ、録音の価値は思ったほど高くないことも多いです。
4.将来的な紛争を防止するために不可欠な合意内容と金員授受の証明
法的トラブルを確実に解決するために大切なことは、当事者間で「紛争を一切解決する」という合意が成立した事実と、その合意の対価または条件となる「金員が確実に支払われた」という事実の、双方を証明できる状態にすることです。どちらか一方が欠けても法的な防壁としては機能しません。
どれほど立派な合意書が交わされていたとしても、実際に金員が支払われたことを証明することができなければ、合意書に従って金員を請求されかねません。
逆に、現金の授受を示す証拠が存在していても、それがどのような合意に基づいて支払われたのかが不明であれば、追加請求を受ける余地が残ります。
5.完璧な文面でなくとも一筆を交わすことの実効性
平穏な日常生活の中で突然トラブルに巻き込まれた一般の当事者が、現場において、完璧な合意書を作成することは実質的に不可能です。裁判に確実に耐えうる合意書を、その場で手書きで短時間に作成することを、専門的な知識を持たず、かつ当事者として行うことは、極めて高いハードルと言えます。
しかし、完全な書面を作ることができないからといって、書面の作成自体を諦めて口頭の約束だけで済ませてしまうことは避けるべきです。たとえ便箋やメモ帳の切れ端であっても、あるいは不十分な文章であっても、何も書面が存在しない状態に比べれば、そこには天地ほどの差が存在します。
書面に最低限記載すべき要素は、作成した日付、当事者双方の署名または押印、受け渡された現金の具体的な金額、そして「今後はお互いに何らの請求も行わない」という趣旨の文言です。この一言があるだけで、書面としての価値は非常に高くなります。不完全な書面であっても、一筆を交わす余裕があるかどうかは、その後の展開を大きく左右することになります。
