1.膨大な資料の整理を前にして生じる負担感
訴訟という事態に直面するとき、当事者である本人は、それ自体で計り知れない精神的ストレスを抱えることになります。裁判という未知の手続きへの不安や、結果に対する焦燥感は、軽んじることはできませ。
そんな状態で、弁護士から「事件に関係する可能性のある資料やデータをすべて集めて整理してください」と求められることは、依頼者にとって物理的にも精神的にも極めて大きな追加の負担となります。依頼者が、「それをするとかなり大量になる」と消極的な反応を示すのは当然かもしれません。
その結果として、本当にそこまで準備する必要があるのかとの疑念が生じ、「そこまでしなければならないのか」と考えたり、弁護士に伝えたりすることもあるでしょう。私も、依頼者から、「全部確認するのはとても手が回らない」「それらの資料や事情は関係あるのか。本当に必要なのか」と言われることは、珍しくありません。
しかし、ここでの一時的な負担を避けるために資料の提出を省略したり、整理を放棄したりすることは、後々になって訴訟全体の行方に致命的な悪影響を及ぼす可能性があります。多少の手間を惜しんだために、より大きな不利益という形で代償を払うことになるリスクを孕んでいます。
2.証拠の提出を負担に感じる理由
証拠の整理や提出を躊躇する理由としては、次のような事柄が考えられます。しかし、後に述べるように、これらの理由は証拠を提出しない理由にはならないことは、理解しなければなりません。
(1) 作業コストへの圧倒
そもそも裁判自体に当事者として関わること自体が、ストレスの原因になります。そのような状態で、過去の嫌な記憶(メールやLINE、書類)をひっくり返して整理するのは、更なる心理的負担になることは間違いありません。
そして、過去の長期間にわたる記録を確認して整理していくことは、慣れていない方にとっては手間も時間もかかります。しかも、単に見返すだけでなく、訴訟に関連するか、提出すると有利なのか不利なのかを考えながら確認して行くことは、現実的にできない方もいるでしょう。
終わりのない作業を前に、やりたくないという気持ちになることも当然かもしれません。
(2) 「読んでくれないのでは」という懐疑心と遠慮
大量に出すと裁判官に迷惑がかかるのではないか、要点だけに関連する資料に絞って提出した方が、裁判官も理解しやすいのではないだろうかと思うかもしれません。しかし、これは訴訟手続きに対する誤解が含まれています。
訴訟手続に馴染みのない方の感覚からすれば、「裁判所に何百ページ、何千ページもの書類を一度に提出したら、担当する裁判官が読むのを嫌がって、かえってこちらへの心証を悪くするのではないか」あるいは「あまりにも多くの情報が混ざることで、本当に裁判官に訴えたい確信的な主張がぼやけてしまい、逆効果になるのではないか」という懸念を抱くかもしれません。
このような事案では、依頼者は、悪意を持っていたり、言い訳をするために、躊躇しているのではありません。むしろ親切心や裁判所への遠慮、あるいは自分なりの戦術的な配慮に基づいて、証拠の適正量をコントロールしようとしています。
しかし、裁判では、当事者が主張した事実が証拠によって裏付けられているかどうかが判断されます。印象によって判断されるのではないのです。事実の認定は常に証拠に基づいて行われなければならないという大原則があります(民事訴訟法第247条)。証拠が不足していれば、どれほど説得的な主張をしていようと、事実を認定する根拠がないことになります。
例えば、5年間にわたる毎月の領収書が合計60枚あるとして、1年目の領収書だけ証拠に出して、5年間同じように領収書を受け取ったと主張したとします。そうすると、裁判官は、2年目からは領収書を出していないかもしれないと考えます。裁判官に対して、5年間領収書を受け取ったことを納得してもらうもっとも端的な方法は、5年分の領収書すべてを証拠として提出することなのです。
裁判官は提出された書証の分量そのものを理由に不快感を抱いたり、心証を害したりすることは絶対にありません。主張を裏付ける証拠は、分量に関係なく提出するべきなのです。
(3) 「薮蛇(やぶへび)」への恐怖
資料をたくさん出すことで、自分に不利な記載が混ざったり、相手方に揚げ足を取られるのではないかと心配することがあるかもしれません。
しかし、このような不安に対して、提出する予定の全ての証拠を精査して、実際に不利になる可能性があるのか、証拠として出すべきなのかを検討するしかありません。もちろん、実際に証拠として提出したときに、裁判官がどのように証拠を評価するかを事前に知ることはできません。
しかし、裁判官による証拠の評価は、基本的には一般的な社会通念に従って行われます。そのため、きゃかん的視点をもって、自分の主張を裏付けるといえるか、それとも相手の主張を裏付けるものになるか、それともどちらとも言えないものなのか、じっくり検討しなければなりません。
裁判官がどのように受け取るかを考えることは、思考的負担は大きいときもありますが、自分自身に有利な証拠を提出するためにも、避けては通れない手続きになります。
(3) プライバシーへの精神的抵抗
証拠を大量に出すことで、自分の生々しい生活痕跡やビジネスの実情を、敵対する相手や裁判所という第三者に開示することへの抵抗があるかもしれません。プライバシーの重要性が主張される昨今、これは自然な感情です。
訴訟においては、直接的な契約書や請求書など以外にも、電子メールのチャットの履歴が重要な証拠になることは珍しくありません。しかし、それらには、事件の争点に直接関係する事務的な部分だけでなく、その前後に交わされた他愛のない会話などが含まれていることもあります。
これらをすべて証拠として提出するとなれば、自らのプライバシーや組織の実情を裁判官や相手方に示すこになります。しかし、これらの付随的な事情が、契約書からは把握できない紛争の実体を解明する重要な資料になることもありますし、契約の内容をより明確に裏付けられる場合もあります。
(4) 費用や物量に対する漠然とした不安
整理すべき資料の量を意識したとき、純粋にそれらの資料を整理したりコピーをしたりするときに、印刷やコピーのコストを重荷に感じたり、ファイリングされた紙の資料を見て、無駄な作業をしているのではないかと感じることがあるかもしれません。
特に、デジタル化が進み紙の資料が減ってきている情勢では、大量の紙資料そのものに抵抗感を感じてしまうかもしれません。裁判所のIT化も徐々に進んではきていますが、まだまだコンピュータ上で完結するものではありません。資源の無駄を感じたとしても、訴訟で望んだ結論を得るために必要なものだと意識する必要があります。
3.証拠裁判主義における立証の重みと量による妥協を排する姿勢
弁護士の視点から見れば、立証のために必要かつ有益であると判断した書証が存在するならば、その分量がどれほど膨大であろうとも、提出を躊躇したり断念したりする理由は全くなり得ません。裁判は客観的な証拠によって事実を一つずつ積み上げていく制度です。立証責任を負う当事者が十分な立証を尽くさなければ、敗訴という不利益が待っているだけです。裁判官が、「資料が大量になるから証拠提出を控えたのだろう」と考えたり、配慮してくることは一切ありません。裁判官は、その職責からしても、提出されていない証拠は、ないものとして考えるしかないのです。
資料が大量になるからという理由で証拠の提出を諦めることは、訴訟の放棄でしかありません。弁護士が真に向き合うべきは、分量の多さではなく、その膨大な記述の中に眠る事実の真実性です。数千ページに及ぶデータや、数年分にわたる膨大な通信履歴であっても、その中のわずか一行、一言の記述が、事案の帰趨に決定的な影響を与えると考える事案は珍しくありません。
どれほど手間のかかる精査作業であっても、すべての資料に目を通し、法律的な評価を加え、裁判官が理解しやすいように的確に整理して法廷に提出することこそが、当事者がすべきことですし、当事者から依頼を受けた弁護士の職務でもあります。
証拠の量が多いことは、証拠説明書や準備書面を適切に作成することで裁判官の理解を助ける必要が生じるものと考えるべきです。証拠として提出しない理由にはなりません。
4.弁護士と依頼者の協働関係
訴訟における証拠の収集、精査、そして提出という一連のプロセスは、弁護士が単独で行えるものではなく、また依頼者だけで完結できるものでもありません。
依頼者は、どのような資料があるかは知っている反面、それが訴訟に必要かの判断には慣れていません。他方で、弁護士は、どのような資料があるかは知らず、経験や知識から推察するしかない反面、資料の評価には慣れています。そのため、両者の協力が必要になります。
依頼者は事案の当事者として、すべての事実の背景を知り、生の資料を保持している唯一の存在であり、弁護士はその無加工の資料に法的な光を当て、裁判という厳格な舞台で通用する形へと整える専門家です。依頼者が「大量にあるから」という躊躇や、見せたくないという心理的な壁を勇気を持って乗り越え、手元にあるすべての材料を弁護士に開示したとき、初めて訴訟における適切な攻撃と防御が完成します。
物理的な分量の多さという壁や、自己開示への抵抗感などを乗り越えることが、裁判官に対する説得力のある立証が可能になります。
