1.トラブルの相手方とのメッセージを自ら消去してしまう心理と背景
ハラスメントや不倫、あるいは深刻な詐欺などの被害に遭った際、加害者とのやり取りが残るスマートフォン上のメッセージアプリの履歴を、被害者自身が自らの手で消去してしまう事案は日常的に発生しています。後になって慰謝料請求や損害賠償といった法的な争いが生じた際、そのメッセージ履歴が極めて重要な証拠となることは頭の片隅で理解していても、それでも消去という行動に出てしまう背景には、被害者が抱える心理的苦痛が存在しているものと思います。
最も強い動機は、精神的な苦痛から距離を置くことです。職場の上司からの執拗な暴言、モラルハラスメントを繰り返す配偶者からの脅し、あるいは配偶者の不貞相手との生々しいやり取りなど、その画面を開くこと自体はもちろん、相手のアカウント名やアイコンが連絡先リストに存在しているのを見るだけで、苦痛を感じることは決して珍しくありません。法的な証拠としての価値を天秤にかける以前に、いま目の前にあるストレス源を視界から完全に排除し、自分自身の心を守ろうとするのは、自然かつ必然的な反応です。 また、相手の裏切りや不誠実な態度に対する強い感情から、衝動的に関係を完全に断ち切りたいという思い、削除してしまう場合もあります。または、自分自身が被害者であるにもかかわらず、そのようなトラブルに巻き込まれている事実や、やり取りの中に含まれる自身の個人的な弱みを第三者に見られたくないという思いもあるかもしれません。
2.相手方の指示やかつての協力関係がもたらす証拠散逸の罠
自発的な消去だけでなく、相手方からの直接的な要望や、当事者間の関係性の変化によって決定的な証拠が失われる事態も珍しくありません。当事者間に明確な力関係や支配関係が存在する場合、加害者側から自分に都合の悪いやり取りはすぐに消すよう直接的に命じられ、その指示に従ってしまう状況です。また、それを消してやり直そうと言うような場合であったり、相手を信じたいという思いから、自ら重要な証拠を手放してしまうこともあります。
さらに法的な対応を困難にさせるのが、かつては協力関係にあったために、双方が合意の上でメッセージを消去していた状況です。例えば、不当な要求に当初は応じてしまっていた事案や、互いに秘密を共有する関係性において、周囲への発覚を免れるためにやり取りを定期的に消去する取り決めをしていたような場合です。その後、関係が破綻して対立状態に陥り、いざ法的な責任を追及しようとした段階で、手元に一切の証拠が残っていないことに気づくことになります。 このような状況下で証拠を失ってしまうのは、被害者が相手の支配下に置かれていたり、相手の言葉を信頼してしまっていたりした結果でもあります。しかし、現実問題として、客観的な記録が自らの手によって失われているという事実は、その後の法的手続きにおいて、結果的に障害となってしまうことがあります。
3.証拠を失うことによる法的な不利益と立証の困難さ
民事裁判においては、自身の権利を主張する側が、その原因となる事実が存在したことを証明しなければならないという原則があります。相手方が不法行為を行ったこと、あるいは何らかの金銭的な合意が存在したことを裁判所に認めてもらうためには、客観的な証拠の提出が重要です。メッセージのやり取りは、相手方の発言内容や当時の緊迫した状況、さらには当事者間の認識のズレをそのまま記録した、極めて強力な証拠になり得ます。
相手方が自らの過ちを素直に認めれば問題は生じませんが、法的紛争に発展する事案の多くにおいて、相手方は自己に不利な事実を平然と否認するか、あるいは異なる認識を持っていることは珍しくありません。客観的な証拠が存在しない状況下では、いくら被害者が真実を語っていても、当事者双方の言い分が真っ向から対立し、言った言わないの泥沼の争いに陥ります。
結果として、証拠を提出できない側の主張が退けられるという厳しい現実も待っています。証拠がない状態での当事者間の直接交渉も、適正な被害回復は簡単ではありません。
4.メッセージを消去してしまった後の次善の策と証拠の再構築
もし既にメッセージを消去してしまっていたとしても、そこで直ちに全てを諦める必要はありません。まず最も重要なのは、証拠を消してしまった自分自身を責め立てないことです。あの時は辛くてどうしても見たくなかったのだと、ご自身の切実な感情をそのまま受け止め、自己否定を止めることが、法的な対処へ向かうための不可欠な第一歩となります。その上で、失われた証拠を補うための次善の策を速やかに講じることです。
スマートフォンの機能やアプリケーションの仕様、あるいはパソコン等との同期設定によっては、バックアップデータからトーク履歴の復元が可能な場合があります。あるいは、周辺にある間接的な事実を丁寧に拾い集め、それらを組み合わせることで真実を立証していくことです。当時の状況を詳細に記した日記や手帳のメモ、トラブルに起因する心身の不調を示す心療内科等の医師の診断書、被害を受けた直後に友人や家族に相談した際の通話履歴やメールのやり取りなどは、証拠として重要な意味を持ちます。
また、出金記録が残る銀行の取引明細や、交通系ICカードの移動履歴なども証拠になることがあります。一つひとつは断片的な情報であっても、それらを時系列に沿って組み立てることで、事実を立証できることがあります。証拠は決して一つだけではないのです。
5.弁護士へ相談することの意義
トラブルの渦中にある当事者が、極度の精神的ストレスを抱えながら、法的に有効な証拠を見極め、それを適切に保全することは至難の業です。辛い記憶を呼び起こすメッセージを毎日ご自身のスマートフォンの中で直視し続けることは、さらなる深刻な精神的苦痛を伴い、日常生活や仕事にも多大な悪影響を及ぼします。そのような過酷な状況下では、弁護士をうまく活用することも考えられます。
証拠となるメッセージを見たくない、手元に置いておきたくないという場合は、消去してしまう前に、その証拠を弁護士に預けてしまうという方法もあります。また、すでに証拠を消去してしまった後であっても、第三者の視点から事案全体を俯瞰することで、ご自身では全く気づかなかった別の証拠の存在や、新たな立証のアプローチが見つかることは多々あります。そのような間接的な証拠も、散逸する前に気付くことができるかもしれません。今ある手札でどのように最善の結果を導き出すかを考えることが重要です。
消してしまえば、取り戻すことはできないかもしれません。もし迷いがあるのであれば、証拠を残しておくことが大切です。
