被害届を出さない合意の無効性とリスク|通報を禁じる条項と公序良俗違反

1.示談交渉における清算条項と警察への通報を禁じる条項の質の違い

当事者間においてトラブルが発生した際、裁判外での合意を成立させて問題を円滑に解決する手段として示談が行われます。示談は、当事者双方が相互に歩み寄り、争いをやめることを約束するため、和解契約(民法第696条)としての性質を持ちます。

(1) 民事に関する合意

その際に作成される示談書には、発生した事案に関して解決することを含めるために様々な合意条項が記載されます。

民事的な内容として代表的なものは、示談書に定めるもの以外に何らの債権債務が存在しないことを相互に確認する清算条項です。清算条項を入れることにより、両者間の経済関係について、一区切りをつけることができます。

清算条項の前提として、示談書に含めなかった金銭的な損害賠償請求権を放棄することも有効です。また、民事的争いを終わらせるために、民事訴訟を提起しないという不起訴の合意を交わすことも有効です。

(2) 刑事に関する合意

一方で、事案が刑事事件の側面を有している場合に、被害者が警察などの捜査機関に被害届を提出しない、あるいは警察に相談しないといった内容を合意条項に含めるかを検討することがあります。

民事上の金銭や義務に関する合意と、刑事手続上の警察への通報や相談の制限とでは、その性質が異なります。

損害賠償という私的な財産上の問題については、私人の自由な意思決定に基づく合意が尊重されます。しかし、犯罪被害に遭った人物が捜査機関に通報したり相談したりする行為は、法秩序の維持や被害救済の観点から個人の権利として保障されているものであり、民事上の不起訴の合意と同列に扱うことはできません。

刑事上の手続へ関与する道を断ち切る合意は、単なる私人として処分できるとは言い切れず、また、そのような合意を保護すべきとも言い切れません。

2.警察への相談を禁じる約束が公序良俗違反により無効とされる理由

警察への通報や相談を行わないという合意の効力が否定されるのは、公的な秩序や道徳に反する法律行為に該当する可能性があるためです(民法第90条)。

刑事罰の対象となる行為は、社会の秩序を著しく害する違法性を備えたものであり、国家が過ちを犯した者に対して適正な刑罰を科すことで法秩序が維持されています。被害者が警察に相談し、捜査機関に対して被害の事実を申告する機会は、国家による適切な処罰を行うことに関するものです。この機会を当事者の意思によって全面的に放棄させ、捜査機関へアクセスする道を閉ざすような契約は、公の秩序を乱すものと判定される可能性があります。

民事上の不法行為であれば、私人の判断で損害を精算し相互の権利義務を消滅させることは可能です。これに対して、刑事上の犯罪行為に該当するほどの深刻な被害が発生している場合、刑事事件の被害者としての立場を完全に私人の任意の判断のみで制約することは適切とは言えません。

刑事事件において、刑事処罰のためには被害者の被害申告は親告罪を除けば必須とされておらず、刑事処罰は被害者の意思とは関係なく、国家の判断で行われるのが原則です。犯罪の危険から個人の生命や身体、財産を保護し、再発を防止するための捜査機関への通報を禁じる義務を課すことは、国家の刑罰権の適正な行使を不当に阻害することになりかねません。

3.刑事手続を見据えた過不足のない有効な示談条項の定め方

警察への一切の相談や被害届の提出を禁じる条項が無効となるリスクを回避しつつ、当事者間で真に刑事上の解決を図るためには、適切な合意内容を選択する必要があります。

刑事事件としての性格を帯びるトラブルであっても、当事者間で解決した旨の条項に盛り込むことの全てが公序良俗に反するわけではありません。実務上、加害者と被害者が示談を成立させる際には、被害者が加害者を許すという意思を示す宥恕条項や、刑事処分を求めない旨を含めることは一般的に行われています。

これらの条項が許容される事情としては、加害者の行為を許すという宥恕の意思や、相手方の真摯な反省と謝罪を受け入れて刑事処分を求めないという条項は、あくまでも被害者の意思を示すものであるからだといえます。これらの条項は、被害者の行為を何ら制限するものではなく、単にそのような意思を被害者が持っているという事実を表示しているにすぎません。

合意書を作成するにあたっては、加害者の安心を優先するあまり、被害者に対して過度な制約や不当な圧力を強いる恐れが常にあります。警察に通報や相談しないという法的効力に疑問が残る無理な約束をするのではなく、相手方の処罰感情が和らいだことなどの事実を文章化することが、結果として当事者双方の将来的な法的安定性を確保するために適切な対応になります。

4.合意後に被害者が警察へ相談した場合

示談書に刑事上の解決を旨とする内容が含まれていたとしても、被害者が心境の変化などから警察に相談を行った場合や、第三者の通報等の別の端緒から捜査機関が事件を認知した場合などには、捜査が行われ得ます。そのような場合であっても、示談書が無意味になるわけではありません。

捜査機関から取調べを受けた際、加害者側は、被害者との間で真摯な話し合いを行い、示談が成立して民事上及び刑事上の解決に至っていることを主張することができます。

検察官が起訴か不起訴かを判断する段階において、被害者の処罰感情の有無や被害回復の程度は、処分を決める上で極めて重要な考慮要素です(刑事訴訟法第248条)。警察が捜査を開始する以前の段階で、被害者が処罰を望まない旨が明確に記された示談書が作成されたことは、検察官が不起訴処分を選択する方向に影響を与える、重要な事情となります。

ただし、示談が成立しているからといって確実に不起訴処分になるわけではないことは注意が必要です。事件の性質が著しく悪質である場合や、身体や生命に対する被害の程度が深刻である場合、あるいは同種の前科前歴が存在する事例においては、当事者間の合意が存在していても検察官が公訴を提起する判断を下すことがあります。これは刑事司法が個人の利害関係のみならず社会全体の安全維持を目的としているために避けられない事態であり、示談が存在すること自体の意味が失われることを意味するものではありません。

5.無効な条項の挿入が示談書全体を無効化する波及リスク

事後的な不安を払拭したいという焦りから、法的に無理のある警察への通報を禁じる条項や公序良俗に反するような条項を示談書に含めることは、示談全体を崩壊させる致命的な危険を伴います。

示談書の中に一部でも公序良俗(民法第90条)に反して無効とされる条項が含まれていた場合、裁判所や捜査機関から「この示談全体が被害者の真摯な自由意思に基づいて作成されていないのではないか」という疑念を抱かれることになります。

もし、脅迫などにより被害者の本意によらない合意であると判断された場合、警察は相談や通報しないという条項だけでなく、民事上の清算条項を含む示談書全体が無効(民法第90条、民法第96条)と判断される恐れが生じます。

示談書全体が無効とみなされれば、民事的な紛争も再発する可能性が出てきます。そのため、話合いのときに、何とか合意までたどり着いたような場合でさえ、再度交渉をやり直さなければならくなります。その際に、依然と同等の合意が成立する保証はありません。

当事者間で示談を進めるときに、目先の安心感を得るために過剰な義務を相手に求める姿勢を排し、法的に有効な範囲内で誠実に歩み寄ることが重要です。適正な内容で示談書を作成し、真実双方の合意に基づいていることを重視することが、トラブルの最終的な解決をもたらすことになります。

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