1.相続による債務の承継と突然の請求に対する心構え
亡くなったご家族の葬儀や諸手続きが落ち着き始めた頃、見知らぬ貸金業者や個人から「亡くなった人に貸していたお金を返してほしい」という通知が届くことがあります。このような手紙や電話を受けた際、多くのご遺族は驚きと不安を抱えることになってしまいます。人が亡くなり相続が開始すると、相続人は被相続人(亡くなった方)の財産に属した一切の権利義務を承継します(民法第896条)。この規定により、預貯金や不動産といったプラスの財産だけでなく、借金や未払金といったマイナスの財産も引き継ぐことになります。相続人として支払い義務を負う立場になった以上、債権者と名乗る者からの請求を無視することはできません。
しかし、ここで最も重要なのは、決して慌てないことです。ご自身の借金であれば、いつ、誰から、いくら借りたのかという記憶があるはずですが、亡くなった方の金銭事情については、たとえ同居していた家族であっても全く知らないことは珍しくありません。被相続人が自分の意思で負った債務の全容を、残された家族が直ちに把握することは不可能です。したがって、請求を受けたからといって、その内容がすべて真実であると思い込んだり、焦って対応したりする必要はありません。まずは落ち着いて状況を整理し、相手の主張が本当に正しいのかどうかを検証する段階から始めることになります。
2.請求の根拠となる契約書や取引履歴の客観的確認
ご遺族は被相続人の生前の取引について、直接の記憶や認識がありません。そのため、債権者と名乗る者からの請求に対しては、単なる口頭の主張や請求書だけでは納得しかねます。相手方に対し、債権が存在することを裏付ける客観的な証拠の提示を求めることが不可欠です。法的にも、お金を貸した、あるいは支払いを受ける権利があるという事実を証明する責任は、請求を行っている債権者にあります。
確認すべき具体的な資料としては、まず金銭消費貸借契約書や各種の取引に関する基本契約書などがあります。被相続人の直筆の署名や実印による押印があるかどうかは、契約の成立を判断する上で極めて重要な要素です。また、契約書が存在するだけでは不十分であり、実際にお金が被相続人に引き渡されたことを示す記録も必要です。これには、被相続人の銀行口座への振込履歴や、現金で渡したと主張するのであればその前後の客観的な出金記録などが該当します。さらに、過去に被相続人が返済を行っていたのであれば、その返済履歴や領収書の控えなども照合する必要があります。これらの客観的な資料を一つひとつ確認し、被相続人の遺品の通帳の記載や手帳のメモなどと矛盾がないかを照らし合わせていきます。
3.債務が事実である場合の支払い義務と例外的な相続放棄の可能性
資料の照らし合わせを終え、債権者の主張する債務が間違いなく存在し、かつ返済の義務が残っていると判断する場合、相続人はその債務を支払う義務を負います。複数の相続人がいる場合は、法定相続分に応じてそれぞれの相続人が分割して債務を負担します。遺産分割協議で特定の相続人がすべての債務を引き受けると決めたとしても、債権者の同意がない限り、債権者に対してはその合意を主張することはできません。
ただし、このような状況においても例外的に支払い義務を逃れる方法が残されていることがあります。それが相続放棄という手続きです。相続放棄は、原則として自己のために相続の開始があったことを知ったときから3カ月以内に家庭裁判所に申述しなければなりません(民法第915条第1項)。突然の請求がこの3か月の期間内であれば、速やかに相続放棄の手続きをとることで、初めから相続人とならなかったものとみなされ(民法第939条)、一切の債務から解放されます。
問題となるのは、被相続人が亡くなってから3カ月以上が経過してから請求を受けたような事案です。原則的な期間はすでに経過していますが、被相続人に相続財産が全くないと信じており、かつ、そのように信じたことについて相当な理由がある場合には、例外的に「相続財産の全部または一部の存在を認識した時」から3カ月として期間計算の起算点を遅らせることが認められる余地があります。しかし、この例外が認められるためには、生前の被相続人との交際状態や生活状況などから、財産調査を期待することが難しかったという厳しい条件を家庭裁判所に説明し、納得させなければなりません。ハードルの高い手続きとなるため、最初から期待する方法ではありません。
4.債権の存在が疑わしい場合の明確な拒絶と訴訟手続きへの対応
債権者からの資料提示が不十分である場合や、被相続人の記録と照らし合わせて明らかに矛盾がある場合、あるいは消滅時効が成立している可能性がある場合などは、債権が存在しない、もしくは支払う法的な義務がないと判断することになります。真偽が不明なものや、存在しないと判断した債務については、債権者に対してその旨を明確に伝え、支払いを断固として拒絶しなければなりません。
支払いを拒絶した場合、債権者は法的な強制力をもって回収を図るため、裁判所に民事訴訟を提起してくる可能性があります。訴状が届くと、多くの方は裁判という言葉の響きに怯え、精神的な負担を感じてしまいますが、訴訟を提起されたからといって相手の主張が認められたわけではありません。訴訟はあくまで、相手方が自身の権利の存在を公の場で証明しようとする手続きに過ぎず、適法な手続きである以上、恐れることなく粛々と対応することが重要です。
訴訟の場においては、相続人側は債権が存在しないこと、あるいは債権者側の立証が決定的に不足していることを論理的に主張していきます。裁判所は双方の主張と提出された証拠を厳格に審理し、債権者の証明が不十分であると判断すれば、請求を棄却する判決を下します(民事訴訟法第243条等)。請求棄却の判決が確定すれば、その債権者からの法的な追及は完全に断たれ、紛争は最終的な解決を迎えることになります。
5.債務の承認を避けるための中立的な回答と専門家への相談
相続人が最も警戒すべきことは、事実関係の確認が完了していない段階で、軽率な回答をしてしまうことです。なぜか執拗に支払いを急かしてきたり、「一部だけでもいいから払ってほしい」「今なら減額する」などと甘い言葉をかけてきたり、あるいは強い口調で脅しまがいのことをしてくる債権者には、最大限の警戒が必要です。彼らが支払いを急がせる最大の理由は、相続人から「債務の承認」を引き出すことにあります。
少し待ってほしいと返済の猶予を求めたり、減額の交渉を行ったり、たとえ一円でも借金の一部を支払ってしまったりすると、その債務が存在することを認めた(承認した)ことになる可能性があります。一度でも債務を承認してしまうと、後から債務の存在を否定することが極めて困難になり、本来なら支払う必要のなかった請求であっても、全額の支払い義務を確定させてしまう恐れがあります。
したがって、内容の精査が終わるまでは、請求そのものに対する実質的な回答は絶対に行わないことが大切です。相手からの連絡に対しては、「現在、遺品を整理し事実関係を確認中です」「弁護士に相談してから回答します」といった、債務の存在を肯定も否定もしない中立的な回答にとどめることが鉄則です。まともな債権者であれば、そのような中立的な回答に理解を示します。
突然の請求に動揺し、相手のペースに巻き込まれて不本意な約束をさせられることを防ぐためにも、直接のやり取りは極力避け、早い段階で法律の専門家である弁護士に相談し、窓口とすることも、ご自身の生活と財産を守るための最も確実な防衛策となります。
