1.債務名義が成立しても直ちに強制執行が行われない理由
裁判の判決や和解、あるいは執行認諾文言付きの公正証書などが作成されると、法的な強制力を持つ債務名義が成立します(民事執行法第22条)。債務名義が確定すれば、債権者はいつでも強制執行や差押えの手続きに踏み切ることが可能になります。
それにもかかわらず、手続が完了してから数ヶ月、あるいは数年が経過しても、一切の差押えが行われないという事案は珍しいものではありません。この状況に直面すると、すでに問題が解決したのではないか、あるいは債権者が権利の行使を諦めたのではないかという認識を抱きがちです。しかし、強制執行を行うか否か、また、いつどのような財産に対して執行を行うかは、完全に債権者の自由な裁量に委ねられています。
債権者としては、強制執行の申立てにかかる印紙代や予納金、書類作成などの時間的・金銭的コストを考慮し、あえて直ちには動かず、債務者が自発的に支払いを行うのを待っている場合があります。
さらに実務上の大きな障壁として、強制執行を行うためには、債権者自らが債務者の特定の財産(預貯金口座の支店名や勤務先など)を特定して裁判所に申し立てる必要があります。債務者の現在の生活状況や財産の所在が判明していない場合、債権者は物理的に差押えの手続を進めることができず、結果として強制執行が行われない空白の期間が生じているのが実態です。
2.債権者による財産調査の現状と見えない水面下での進行
長期間にわたって差押えが来ない状態は、債権者が何のアクションも起こしていないことを意味するわけではありません。むしろ、確実な回収を図るために、水面下で慎重に債務者の財産調査を進めている場合があります。
近年では、強制執行の制度が改正され、債権者が債務者の財産を見つけ出すための手段が大幅に強化されました。裁判所を通じて債務者本人を呼び出し、自身の財産状況を陳述させる財産開示手続が整備されています(民事執行法第197条)。正当な理由なくこの期日に出頭しなかったり、虚偽の陳述を行ったりした場合には、刑事罰が科される可能性もあります。さらに、第三者からの情報取得手続を利用することで、債権者は金融機関に対して債務者の預貯金口座の有無や残高を照会したり、市町村や日本年金機構を通じて債務者の現在の勤務先情報を取得したりすることが可能になりました(民事執行法第207条)。
これらの調査手続には一定の要件と時間を要するため、債権者が情報を収集し、確実な差押えの準備を整えるまでの間、表面上は何も起きていないように見える期間が生じます。今日まで差押えがなかったという事実が、明日も差押えがないという保証にはならないことは認識しておく必要があります。
3.差押えを放置し続けることによる遅延損害金の増大と生活基盤喪失リスク
債務名義が存在するにもかかわらず支払いを怠り、強制執行も来ない状態が継続したとしても、直ちに警察に逮捕されるといった刑事上の処罰を受けるわけではありません。しかし、民事上の責任は消滅せず、支払い義務を放置する期間が長引くほど、経済的な不利益は確実に増加します。元本に対して、遅延損害金が加算され続けるためです(民法第419条)。
数年単位で放置された場合、本来支払うべきであった金額の何倍にも債務が膨れ上がる事態も想定されます。そして、債権者の調査が完了し、強制執行が実行された場合、その影響は債務者の生活基盤を根底から揺るがすものとなります。
給与が差し押さえられた場合、手取り額の原則として4分の1が直接債権者に支払われることになりますが(民事執行法第152条)、それ以上に深刻なのは、差押えの通知が勤務先の会社に送達されることです。これにより、従業員が債務トラブルを抱え、法的な強制執行を受けているという事実が勤務先に知られてしまいます。また、預貯金口座が差し押さえられれば、その時点での残高が引き出せなくなり、家賃や公共料金の引き落としができなくなるなど、日常生活への影響がでます。いつ差押えの通知が届くかわからないという精神的な重圧を抱えながら生活し続けることも、非常に大きな負担となります。
4.債権者の動向が不明な状況下で債務者が検討すべき対応策
突然の差押えによる生活や仕事への壊滅的な影響を回避し、日常を取り戻すためには、強制執行が来るのをただ待つのではなく、状況に応じた主体的な対応をとることが求められます。
債権者の連絡先が明確にわかっている場合には、現在の自身の経済状況を誠実に伝えた上で、分割払いなどの現実的な返済計画を提案し、合意を図るための交渉を行うことが有効な選択肢となります。債権者側も、費用と時間をかけて強制執行を行い、空振りに終わるリスクを負うよりは、少額ずつであっても確実な任意整理に応じる方が合理的であると判断する余地は十分にあります。
一方で、債務名義が作成されてから長い年月が経過しており、債権者が移転していたり、会社が合併・倒産していたりして、現在の連絡先や住所が全くわからないという事態に陥ることもあります。そのような状況で、支払いの意思があるにもかかわらず受領されない場合には、法務局へ金銭を預ける供託という手続きをとることで、遅延損害金の発生を食い止め、法的に支払い義務を果たしたのと同等の効果を得ることが可能です(民法第494条)。
5.時効の成立可能性と時効更新を回避するための慎重な判断
判決から長期間が経過している場合、法的な対応を検討するにあたって、消滅時効が成立している可能性を視野に入れる必要があります。確定判決や裁判上の和解などによって確定した権利については、通常の債権の時効期間とは異なり、消滅時効にかかる期間が一律で10年に延長されます(民法第169条)。
もし、債務名義の確定から10年以上が経過しており、その間に債権者から新たな裁判上の請求や差押えなどを一切受けていないのであれば、時効の援用という手続きを行うことで、支払い義務を消滅させることができる可能性があります。
しかし、ここで極めて注意しなければならないのは、時効期間の経過が迫っている、あるいはすでに経過している状況下で、不用意に債権者へ連絡をとってしまうことの危険性です。債権者との会話の中で「もう少し待ってほしい」「一部だけなら払える」といった、債務の存在を前提とする発言をした場合、それが債務の承認とみなされ、それまで進行していた時効期間が完全にリセットされてしまいます(民法第152条)。これを時効の更新と呼びます。
したがって、長期間音沙汰がない債権者に対して、自ら連絡をとって分割払いの交渉などを申し出る前には、必ず過去の裁判資料や通知書などの日付を詳細に確認し、時効の成否を自覚して対応することが不可欠です。
