契約書の原本が手元にない場合のリスク|コピーや写真による立証と保管の責務

1.契約書の原本が手元にない場合の不利益

契約は当事者間の合意のみによって成立するのが原則であり、契約「書」の作成は法律上必ずしも要求される要件ではありません(民法第522条第1項)。しかし、当事者間で紛争が生じ裁判になった場合には、合意が存在したという事実を第三者である裁判官に対して知ってもらわなければなりません。その際に、契約内容を証明するための直接的な証拠となるのが、双方が署名・押印を行った契約書の原本です。

自分が法的な権利を主張したい立場であるにもかかわらず、手元に原本はおろかコピーすら存在せず、対立する相手方のみが原本を所持している状況は、極めて危険な状態です。相手方が原本を裁判所に提出してくれれば問題はありませんが、激しく対立している状態において、相手方が自発的に不利な証拠を開示することは期待できません。裁判所の手続きとして、文書提出命令(民事訴訟法第223条)を申し立てるという手段もありますが、それに対して相手方が「そのような文書は初めから作成していない」あるいは「すでに破棄して紛失した」と主張した場合、提出を求める側が原本の存在自体や相手方の所持の事実を証明しなければならないという、困難な壁に直面することになります。

証拠とは自己の正当な権利を守り抜くための武器であり、それを自らの手元で厳重に保管していない状態は、武器を持たずに戦場に立っていたといわざるを得ません。

2.原本もコピーも存在しない状況での契約成立の証明方法

手元に契約書の原本もコピーも一切ないという状況下で、相手方が契約の成立そのものを真っ向から否定した場合、書面以外の別の手段で合意の存在を間接的に立証していくことになります。そのような状況で証拠として提出されるのが、契約締結に向けた交渉過程でやり取りされた契約書のドラフト(案文)データや、条件を擦り合わせるためのメールやメッセージアプリの履歴です。これらは、両当事者間に何らかの取引に向けた交渉が行われていた事実を示す一定の証拠にはなりますが、それをもって直ちに最終的な法的拘束力のある合意に至ったことの直接的な証明にはなりません。

相手方からは、「確かに前向きな話し合いを行い、ドラフトの修正も繰り返したが、最終的な金額や条件がどうしても折り合わず、双方が署名押印して契約を成立させるには至らなかった」という反論がなされる可能性が常に残ります。

また、正式な契約書が存在しないまま、すでに取引に基づく金銭の一部支払いや、商品の引き渡し、あるいは業務の一部着手など、何らかの履行に及んでいる事実がある場合、それは契約が成立していたことを強く推認させる強力な間接証拠になり得ます。本来、当事者間に法的義務を伴う契約が存在しなければ、そのような労力や費用を伴う行動をとるはずがないという経験則が働くからです。しかし、この事実関係をもってしても、相手方からは「従前の長年にわたる取引関係や、将来の契約成立を見越した事実上の協力として先行して履行しただけであり、正式な契約書を作成して合意していない以上、当該契約に基づく法的な支払い義務は発生していない」といった、事案の前提を根本から覆すような争い方をされる危険性が内在しています。

合意の有無が明確な一つの書面で確定されていない以上、当事者間の認識のズレが裁判において対立を生み出す原因となります。

3.契約書のコピーや写真のみが手元に残されている場合の証拠価値

原本そのものが手元になくとも、契約書のコピーや、スマートフォン等で撮影した高画質な写真データが記録として手元に残されている場合があります。これらの複製物は、原本には劣るものの、文書の存在と具体的な内容を示す有力な証拠として裁判所に提出することが十分に可能です。

特に、双方の署名や押印が鮮明に確認できるコピーや写真が存在すれば、過去の時点においてそのような内容の文書が確実に作成されていたことを強く推察させることになります。コピーや写真が証拠として提出された場合、不利な立場となる相手方は「これは後からデジタル加工等で偽造されたものである」とか「原本とは異なる内容に一部が改ざんされている」といった反論を試みることがあります。しかし、現代の技術水準に照らして精巧な改ざんの痕跡が見当たらない限り、相手方が全くの白紙状態から「合意は存在しない」という主張を組み立てることに比べれば、コピーを有する側の立証のハードルは格段に下がります。

とはいえ、原本が存在しない理由は当然に問われることになります。なぜ自らはコピーしか保持していないのか、原本は誰がどのような理由で保管することになっていたのか、あるいはどのような経緯で紛失してしまったのかという事情を合理的かつ自然に説明できなければ、証拠としての全体の信用性が減殺される恐れはあります。

4.契約書の作成途中で生じる空欄のリスクと最終合意の壁

コピーや写真が手元に残っていたとしても、その書面の内容自体に不備があれば、証拠としての価値は著しく低下し、場合によっては無意味となります。実務の現場で見受けられるのが、双方の署名押印はなされているものの、契約の核心部分となる取引金額、納品数量、履行期日あるいは契約書作成日といった重要事項が空欄のまま放置されている状況です。当事者間では口頭ですでに合意が形成されており、単なる事務手続きの都合上「後で正確な数字を入れておいてほしい」というつもりで空欄のままということもあるようです。

しかし、このような空欄を残したままの書面を証拠として法廷に提出した場合、相手方からは「金額等の最も重要な事項について最後まで合意ができなかったため、形式的に署名押印はしたものの、あえて完成させなかった未完成の文書に過ぎない」という反論を受けることになります。契約書というものは、当事者間の権利義務の発生を確定させるための、最終的かつ決定的な意思表示の書面です。肝心な部分が抜け落ちている書面は、法的な効力を生じさせる意図をもって作成された完成品とはみなされず、単なる交渉過程のメモや合意に向けた草案と同視される危険性が高いです。

仮に、事後的に一方が勝手に空欄を補充すれば、私文書変造罪(刑法第159条第2項)に問われるリスクすら生じます。契約書を作成するという行為は、すべての条項、特に合意の要となる具体的な数字や日付を確定させ、一つ残らず記入し切る作業を意味します。ここを妥協して空欄を残すことは、契約書を作成したとはいえないと言ってもいいかもしれません。

5.例外的に片方のみが原本を保管する事案と本来の契約書管理のあり方

契約書の原本保管において、すべての事案で必ず双方が原本を所持しなければならないという決まりがあるわけではありません。例外的な状況として、一方の当事者だけが法的な義務を負い、他方が権利のみを一方的に有する性質の契約においては、権利を行使する側のみが原本を保管する運用が実務上も一般的です。その典型例が、金銭の貸し借りにおける借用書、すなわち金銭消費貸借契約に関する書面です。

お金を貸し付けたという事実を前提とすれば、借りた側には将来的に利息を含めて返済する義務だけが残ります。この状況において、法的な請求権を持つ貸した側(債権者)が証拠としての借用書の原本を単独で所持することは理にかなっており、返すだけの立場である借りた側(債務者)が借用書の原本を持つ必要性は強くありません。すなわち、その契約によって将来的に自己の権利を主張し、相手方に義務の履行を求める側が、証拠となる書面を確保していれば足りるということです。

しかしながら、企業間取引における売買契約や業務委託契約、あるいは不動産の賃貸借契約など、一般的なビジネスや市民生活において交わされる契約の大部分は、双方が互いに何らかの権利を有し、同時に義務を負う双務契約の性質を持っています。このような契約形態においては、将来発生し得るトラブルにおいて、どちらの当事者が権利を主張する立場(原告)になるか事前に予測することは不可能です。そのため、双方が署名押印した原本を必ず2通(または当事者の数だけ)作成し、各自が1通ずつ厳重に保管することが、最も自然であり、かつ法的に安定した対応となります。

契約の締結交渉に多大な時間と労力を費やし、専門家のチェックを経た立派な契約書を作成したとしても、自らの手元に原本を確実に保管していなければ、防衛策としては片手落ちと言わざるを得ません。契約書は単なる約束の記録ではなく、有事の際に自らの事業と財産を守るための武器です。内容の作成と確実な保管は、常に不可分一体のものとして満たされていなければなりません。