1.加害者が口外禁止条項を求める切実な事情
刑事事件を起こしてしまい、被害者の方との間で示談交渉を進める際、加害者側から提示されるものに、「口外禁止条項」があります。これは、事件の内容や示談の成立、交渉の過程、さらには当事者の個人情報などを第三者に口外しないことを漏らさないことを相互に約束する取り決めです。
具体的な文言は様々ですが、一例をあげれば、「加害者および被害者は、本件事件の内容、本示談に至る交渉の経過及び本示談書の内容について、正当な理由なく第三者に口外しないことを相互に確約する。」などといった条項を記載します。
加害者にとって、この条項は極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、事件を起こした事実が勤務先や地域社会、あるいは親族に知れ渡ってしまうと、仕事を失ったり、家族関係の崩壊といった取り返しのつかない不利益を被る危険性が高いからです。特に現代のインターネット社会においては、一度事件の事実が不特定多数の目に触れれば、半永久的にデジタルタトゥーとして刻まれ、社会復帰の機会すら完全に奪われてしまう恐れがあります。
示談金を支払い、平穏な日常を守り、再出発への足がかりを残したいと考えるのは、加害者としての切実な願いと言えます。そのため、加害者は、可能であれば口外禁止条項が結びたいと考えるのです。犯罪という取り返しのつかない行為をしてしまった以上、厳しい非難は免れませんが、法律が予定する刑罰以上の過剰な社会的制裁を無制限に受けることは、更生という観点からも決して望ましいものではありません。したがって、加害者側としては誠心誠意の謝罪とともに、どうかこの事実は当事者間だけのものにとどめてほしいと、被害者に対して強くお願いをすることになります。
2.被害者が口外禁止条項に難色を示す理由
一方で、被害者の立場からすれば、この口外禁止条項を受け入れることには強い心理的抵抗が生じることが少なくありません。突然理不尽な犯罪被害に遭い、身体的・精神的な多大なる苦痛を強いられたにもかかわらず、なぜ加害者を守るために自分の言動まで制限されなければならないのかという理不尽さがあるはずです。被害のトラウマから立ち直るために、信頼できる友人や知人に苦しみを打ち明けて精神的な支えを得たいと願う方や、同じような被害を防ぐためにSNS等で被害の実態を社会に訴えたいという思いを抱く方もいらっしゃいます。それにもかかわらず、「口外しないでほしい」と要求されることは、まるで加害者から口封じをされているように感じられ、金銭で真実を闇に葬ろうとしていると受け取られかねません。被害を受けた事実を誰にも言えずに抱え込み続けることは、二次的被害にも等しい精神的負担となることがあります。
ただし、事案の性質によっては、被害者側から積極的に口外禁止条項を求めることもあります。痴漢や盗撮、不同意性交等の性犯罪においては、被害者自身が事件の事実や自身の身元を第三者に知られることを極度に恐れます。このような状況下では、被害者のプライバシーと平穏な生活を守るという目的で、両者の利害が一致し、口外禁止条項が極めて円滑に合意されることもあります。しかし、そうした特別な事情がない限り、被害者にとって口外禁止条項は「被害を受けた上に自由まで奪われる」という二重の苦痛と映る可能性があり、ここが示談交渉の過程でどのような帰趨に至るかは、具体的な事案により様々です。
3.条項が存在しない場合の法的リスクと名誉毀損の成立要件
それでは、仮に示談書に口外禁止条項が盛り込まれなかった場合、被害者は事件のことを誰にでも自由に話してよいのでしょうか。結論からいえば、決してそのようなことはありません。被害者であっても、加害者の犯罪行為や個人情報をむやみに第三者へ言いふらしたり、インターネット上に書き込んだりする行為は、法的な責任を問われる危険性を孕んでいます。
公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず処罰の対象となります(刑法第230条1項)。加害者が実際に犯罪を行ったという事実が真実であったとしても、公共の利害に関する特例等に該当しない限り、それを不特定多数の人が認識できる状態で広める行為は、名誉毀損罪の構成要件に該当する可能性が十分にあります。さらに、刑事上の責任だけでなく、プライバシー権の侵害や名誉毀損を理由として、加害者側から被害者に対して民事上の不法行為に基づく損害賠償請求が行われる可能性も否定できません。正当な理由なく他人の知られたくない私生活上の事実や前科・前歴に関わる事実を暴露することは、たとえ被害者という立場であっても無制限に許されるものではありません。
このように、法律上はもともと、他人の名誉やプライバシーをみだりに侵害してはならないという制約がすべての人に課せられています。口外禁止条項がないからといって、積極的に社会的制裁を与える行為が許容されるわけではないという法的な現実を、正しく理解しておく必要があります。
4.実質的な不利益の比較と紛争解決に向けた合意形成のあり方
前述のとおり、名誉毀損やプライバシー侵害という一般的な法規制が存在することを踏まえると、被害者にとって「口外禁止条項」を結ぶことは、法律的にそこまで新たな義務を課すものではないという見方もできます。もともと法律で禁じられている違法な暴露行為をしないということを、示談書という書面で改めて確認し、当事者間の明確なルールとして再設定するに過ぎない側面があるからです。
他方で、加害者にとっては、この条項が明文化されているかどうかが、将来の不安を払拭できるかどうかの分水嶺となることも事実です。一般的な法律の縛りがあるとはいえ、「絶対に言わない」という明確な約束を被害者がしてくれる安心感は、加害者が新たな罪を犯すことなく社会復帰を目指す上で不可欠な精神的支柱となります。
傍から見れば、加害者が金銭を支払って相手を黙らせる「口止め料」のように映る事象かもしれません。しかし、示談交渉の現場において、加害者側が自らの立場をわきまえず強圧的に口外禁止を迫るようなことは決して許されませんし、そのような傲慢な態度は被害者の感情を逆撫でするだけで示談は到底成立しません。被害者が被った多大な苦痛に対する真摯な謝罪と、それを補填するための相応の慰謝料の支払いがあり、その上で、互いにこれ以上過去の事件にとらわれず、新たな生活を歩むための決別の儀式として、口外禁止条項が機能するのです。
両者が合意できるぎりぎりの妥協点を探り、真の意味で紛争を終局的に解決するためのものであり、「口封じ」や「黙らせる」といった捉え方は、無責任な第三者の評価でしかありません。
5.示談成立に向けた弁護士の介入と適切な条件調整の重要性
このように、口外禁止条項を巡る交渉は、加害者と被害者の感情が激しくぶつかり合う、極めてデリケートな過程を辿ります。加害者本人が直接交渉を試みても、被害者の警戒心や嫌悪感を煽るだけであり、自分に都合の良い口止めだけを画策していると受け止められます。
多くの場合、加害者の立場は加害者の弁護士(弁護人)が代弁することになります。加害者が逮捕されていれば、加害者が被害者と直接交渉することはありません。弁護人は、被害者の心情に最大限の配慮を払いながら、慎重に言葉を選んで交渉を進めます。単に定型的な示談書を押し付けるのではなく、なぜこの条項を加害者が求めるのか、それが被害者にとってどのような意味を持つのかを、客観的かつ誠実に説明します。
被害者がどうしても納得できない部分や、実生活上の不都合が生じる懸念があれば、具体的な条項の修正を検討することは当然です。特に、口外禁止条項については、その内容や範囲については様々な定め方があり得ます。「同居の家族への報告だけは例外とする」「カウンセラーや医療機関への相談時には例外とする」「警察や公的機関への申告は制限しない」といった具体的な例外規定を明示することも考えられます。
互いの権利と感情を尊重し、着地点を見出されなければなりません。口外禁止条項は、単なる口封じの道具ではなく、加害者と被害者双方が事件について意識的に一区切りをつける重要な約束の形なのです。
