1.処罰感情と経済合理性のジレンマ
従業員や役員による業務上横領が発覚した直後、経営者としては「信じていたのに裏切られた」という強い憤りから、「刑務所に入れてやりたい」と考えるのは当然の反応です。しかし、事業経営という観点に立つと、感情的な処罰(刑事告訴)と、実利的な被害回復(損害賠償)を天秤にかけなければならない場面が出てきます。
告訴を行い、加害者が起訴されたり有罪判決が言い渡されれば制裁は下りますが、刑事手続はあくまで国と加害者の関係の手続きであり、経営者側は当事者ではなく、お金が戻ってくる仕組みではありません。むしろ、加害者が逮捕や起訴されて職を失えば、支払い能力が完全に喪失し、最も優先すべき「被害金の回収」が不可能になるという結果を招きます。
ビジネスライクに考えるならば、処罰が単なる「感情の充足」に留まる場合、経済合理性は低いといわざるを得ません。告訴と賠償請求は独立した手続ですが、実務上はどちらを優先させるかを考えることになります。
2.「被害弁償の最大化」を最優先にすること
とにかく被害弁償を優先させる選択は、事業の損失を最小限に抑える上で極めて合理的な判断です。早期に弁済を求めることは、経営の健全化に向けた第一歩といえます。
加害者が即座に全額弁償できるケースは稀であり、多くの場合、長期的な返済計画を含む合意書(債務承認弁済契約書)を作成することになります。この際、単なる書面ではなく「強制執行認諾文言」を付した公正証書を作成することが有益です。これにより、将来返済が滞った際に、裁判を経ることなく加害者の預貯金や不動産、転職先の給与などを即座に差し押さえることが可能になります。
加害者側から「告訴しないでほしい」という条件が提示されることも多いです。「誠実に支払いを続ける限りは告訴を猶予するが、不履行があれば直ちに刑事手続へ移行する」という合意を形成することで、加害者に対して継続的な返済の動機付けを与えることができます。
3.合意に至らない場合に「告訴」を優先すること
加害者に全く反省の色が見られない、あるいは返済の意思や能力が皆無である場合、被害者として納得できる合意に至ることは困難です。このようなケースでは、告訴を優先せざるを得ません。
直接的な金銭回復には繋がらなくとも、犯罪を看過しない姿勢を示すことや、社内のコンプライアンス維持、再発防止の観点からは、厳正な処罰を求めることに合理性はあります。告訴には詳細な証拠整理と警察への粘り強い働きかけが必要となり、一定の事務的コストはかかりますが、事業の規律を守るための方策となります。。
また、当初は弁償に消極的だった加害者が、警察の捜査が進むことで、返済原資を工面するなどして示談を申し入れてくるケースも少なくありません。ただし、被害者から、捜査状況などを材料に交渉することは「脅迫」と取られるリスクもあるため、慎重な交渉が必要になります。
4.告訴を断念するのではなく「保留」して推移を見極める
損害賠償請求と刑事告訴は、二者択一ではなく、状況に応じて使い分けるべきものです。最善の選択は、具体的な状況の中にあります。
業務上横領では、被害者による証拠整理や、警察が事件を受理するための精査にそれなりの時間を要することが一般的です。現実的には、この猶予期間を活用することになります。つまり、告訴の準備を進めつつ、加害者に被害弁償の機会を与え、その誠実さを見極めるための期間とするのです。
「いつでも告訴できる準備は整っている」という背景を持って交渉に臨むことで、加害者の甘えを許さないことに通じます。返済が滞った瞬間に告訴状を提出できる状態を作っておくことこそ、煮え切らない被害者への最善の対応になります。
5.専門家による「ビジネスライクな解決」が早期復旧の鍵
業務上横領という異常事態を早期に収束させるには、感情論を排した「事務的かつ法的な処理」に徹することが重要です。
まず行うべきは、客観的な証拠に基づく被害内容の確定です。金額が不明瞭なままでは、損害賠償請求も告訴も不明瞭になってしまい、余計な時間がかかってしまいます。また、加害者への請求についても、法的な根拠を超えた過大な要求や、感情的な恫喝は当然ながらすべきではありません。これらは後に、被害者から、「不当なプレッシャーによる合意」などとして無効を主張されたり、警察からは保護に値しない被害者であるなどと評されるリスクがあります。
淡々と「債務の確定」と「履行の担保」を進めることで、経営者は本来の業務に集中することができます。法的根拠に基づい交渉こそが、被害金の回収率を高め、会社を正常な営業状態へと最短で戻すための最善策といえます。
