1.裁判を起こさない約束「不起訴合意」の法的な性質
特定の権利や法律関係について、将来にわたって裁判所に訴えを提起しないことを当事者間で約束することを、「不起訴合意」と呼びます。日常生活やビジネスの現場において、何らかの合意や契約をした際に、「本件に関し一切の裁判上の請求を行わない」といった条項を定めることにより合意することがあります。
民事訴訟においては、当事者が民事訴訟による紛争処理をどの範囲で求めるかなどについての当事者の自己決定権を認める原則を処分権主義といいます。そのため、当事者が自らの意思で裁判を起こさないと決めること自体は、処分権主義の見地からは、その効力を認めてよいといえます。当事者が納得の上で、裁判という手段を用いないことを合意したのであれば、それに反して提起された訴えは、却下されることになります。
しかしながら、裁判所に訴えを提起して公正な判断を仰ぐ権利は、憲法で保障された極めて重要な権利です(憲法第32条)。不起訴合意は、この「裁判を受ける権利」をあらかじめ放棄するという重大な性質を持っています。一般的な契約で合意管轄(どこの裁判所で裁判をするか)を定めることなどとは異なり、裁判そのものを放棄させる合意をすることは、非常に特殊な状況です。優越的な地位にある者が、相手方の無知や困窮に乗じて一方的に訴権を奪うような合意を強要することは、法的に保護されるべきではなく、その有効性については極めて慎重に判断されなければなりません。
2.不起訴合意が無効とされる「公序良俗違反」の判断基準
当事者間で合意書に署名押印がなされていたとしても、不起訴合意が常に有効となるわけではありません。その内容や締結に至る経緯が妥当性を著しく欠く不当なものである場合には、公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為として、無効と判断されます(民法第90条)。
では、どのような場合に公序良俗違反として無効になるのでしょうか。裁判所の判断によれば、不起訴合意が公序良俗に反するか否かは、「当事者の属性及び相互の関係、不起訴合意の経緯、趣旨及び目的、不起訴合意の対象となる権利又は法律関係の性質、当事者が被る不利益の程度その他諸般の事情を総合考慮して決すべきである」としています(最高裁判所第1小法廷判決令和6年7月11日)。
例えば、加齢や病気によって判断能力が著しく低下している高齢者に対し、その財産を不当に減少させるような行為を行った側が、自身の不法行為責任を免れる目的で、あらかじめ「一切の損害賠償請求をしない」という念書を書かせたような場合を想定してみます。当事者には合意する最低限の意思能力はあるかもしれませんが、その合意内容が一方の当事者に極めて不利益であり、その不利益を受け入れる合理的理由がないときなどは、他方当事者を保護する必要性も乏しく、公序良俗に反し無効であると判断される可能性が高いといえます。
3.宗教団体等への高額献金トラブルに見る不起訴合意の無効事例
不起訴合意について公序良俗違反を判断した最高裁判例は、宗教団体等の信者が多額の献金を行った後、将来的な返金や損害賠償請求について不起訴合意の書面が作成された事案でした。さらに、独身であり、
その事案では、高齢の信者が約10年間に1億円を超える多額の献金を行った後、宗教団体側から示された不起訴合意の書面を作成したものの、書面作成の半年後には意思能力を失ったというものでした。そして、その信者は、不起訴合意をすることで、何ら特段の対価となるものを得ているとはいえませんでした。単身で生活しており、宗教団体からの影響が大きかった事実も認定されています。
公序良俗違反による無効は、契約自由の原則を制限するものであり、また、その適用範囲も明確ではなく、軽々しく認められるべきものではありません。しかしながら、裁判を受ける権利を制限すること、そして当事者の不利益が極めて大きいことなどから、例外的に認められたものと言えます。公序良俗違反も例外的ながら、裁判を受ける権利を放棄することも例外的であったという緊張関係にある法解釈であるといえるでしょう。
4.不当な念書や合意書に署名してしまった場合の具体的な対応
当事者間で「裁判を起こさない」「一切の返金請求をしない」という念書や合意書に署名押印してしまった場合、多くの方は「もう法的に争うことはできない」と納得しようとしてしまいます。特に、弁護士等の専門家が関与して作成された合意書など、形式的に立派な書面が存在すると、その法的な効力は動かせない認識してしまうかもしれません。
しかし、これまで解説してきたように、書面の存在が常に絶対的な効力を持つわけではありません。合意の背景に著しい不均衡や不当な経緯が存在する場合、法的な手続きを通じてその合意の無効を主張し、本来の損害賠償請求権などの権利を回復することができる可能性はあります。
ただ、忘れてはならないことは、やはり書面の効力は強く、その効力が否定されるのは極めて例外的な場合だということです「これは不合理な書面だから、署名してもどうせ後から効力が否定できるから大丈夫だ」とは決して考えてはいけません。面倒だから、しつこいから、とりあえず署名してやり過ごそうという対応は厳禁です。
それでも、もし、真意ではないにもかかわらず不当な権利放棄の書面に署名してしまった場合、あるいはそのような署名を強く迫られて署名してしまった状況にある場合は、決して事態を放置せず、事実関係を整理する必要があります。合意に至った経緯を示す手帳のメモやメッセージのやり取り、当時の健康状態を示す医療機関の診断書、多額の財産の移動を示す預貯金通帳の記録など、関連する客観的な資料を可能な限り手元に保管しておくことが、後の法的な主張を裏付け、真の解決に向けた重要な土台となります。
